東広島市の概要
東広島市は、広島県のほぼ中央の賀茂台地に位置し、江戸時代から続く酒づくりが全国的に有名で、灘・伏見と並ぶ三大銘醸地として知られています。
市域は、山陽自動車道に面し、河内IC、西条IC、志和ICと3つのインターチェンジを抱える交通の要衝となっています。また、広島大学を中心とし、近畿大工学部、広島国際大、エリザベト音楽大西条学舎を抱える学園都市を形成、広島中央サイエンスパークには試験研究機関が立地、先端技術産業を中心とした企業立地が進んでいます。
東広島のあゆみ
東広島に人が住み始めたのは、今から約8000年前の縄文時代以前といわれ、宗近柳国にある岩幕山山麓遺跡や楢原にある砥石山遺跡からは、縄文時代早期や後期の土器片や石鏃(石の矢じり)などが発見されています。
古墳時代中期以降になると、首長や大王などの大墳墓以外にも、地方の豪族や官史、有力農民などの小規模の墳墓が数多く作られるようになりました。黒瀬町では、古墳時代中期・後期の岩谷古墳や岩幕山古墳、保田古墳などがあり、石棺や石室が発掘され、須恵器・土師器・鉄刀などが出土しています。
鎌倉時代には、後の小早川氏の祖といわれる土肥氏が沼田荘(本郷町)に入り、黒瀬の一帯もその勢力下にありました。嘉応年間(1169年〜1170年)には、土肥大炊頭広親が二ツ山城を居城していたと伝えられています。
南北朝時代から室町時代初期にかけては、伊予(愛媛県)河野氏の一族とみられる新居氏が支配するようになりました。新居氏は、菅田の岡ノ城(月見館)を居城としていたといわれ、樋之上八幡神社には、文正元年(1466年)建立の願主として、新居氏の名を記した棟札が残されています。
室町から戦国時代には、西条盆地と黒瀬川下流域の一帯は、安芸国東西条と呼ばれ、周防(山口県)、大内氏の直轄領となりました。同氏の支配拠点となっていたのが鏡山城(東広島市)です。また、東西条は、戦国時代の前半は、細川・大内両氏による東西勢力の争いの場となり、後半は大内・尼子両氏による南北勢力の対決の場として、その度に鏡山城の争奪戦が繰り返されました。大永3年(1523年)、安芸に侵入した尼子経久は毛利元就らと共にこの城を攻め落としています。その後、天文20年(1551年)、大内氏の重臣陶晴賢が主君大内義隆を討ったのに呼応して、毛利元就は、大内軍の槌山城(東広島市)を攻略しました。大内氏の勢力が一掃されたあと、東西条・黒瀬一帯は一時、小早川隆景の支配下におかれましたが、後に毛利氏が支配するようになりました。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに敗れ、周防・長門2カ国に移封された毛利輝元に代わって、翌年、福島正則が安芸・備後両国の領主となりました。しかし、20年後の元和5年(1619年)、福島氏は改易となって信州へ移り、紀伊の浅野長晟は安芸藩主として入国、以後幕末まで浅野氏の統治下におかれました。
江戸時代、黒瀬町域は、旧藩道広島往還に通じる交通の要衝でもありました。主な産業は農業でしたが、村によっては木綿や晒木綿、瓦などの製造も盛んで、近隣の村々や広島、尾道などへ販売していました。また、このころ新田開拓も盛んに進められ、どの村にも灌漑用の溜池がたくさん作られました。現在の黒瀬町の豊かな田園地帯は、この時代に基礎が作られたといえるでしょう。
東広島市の誕生は、昭和49年(1974年)、広島大学の統合移転を機に、賀茂郡内の西条町、八本松町、志和町、高屋町の4町が合併し、市制が施行されたことに始まります。同市は、広島大のほか、近畿大工学部、広島国際大、エリザベト音楽大西条学舎を抱え、学園都市として発展してきました。また、広島中央サイエンスパークには試験研究機関が設けられ、先端技術産業を中心とした企業が進出しています。平成17年(2005年)2月7日に、黒瀬町、福富町、豊栄町、河内町、及び安芸津町と合併し、新生「東広島市」として新たなスタートを切りました。現在、新生東広島市は、その都市像を「未来にはばたく国際学術研究都市」と定め、市の多彩な個性を活かしたまちづくりを推進しています。
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| 東広島の歴史についてもっと詳しく知りたい人はこちら↓ |
三永歴史民俗資料館 |
| 住所: |
〒739-0023
広島県東広島市西条町下三永930 [地図を見る] |
| 電話番号: |
082-420-0977 |
| 開館時間: |
10:00〜16:00 |
| 休館日: |
土曜、日曜、祝日 |
| 入館料: |
無料 |
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